京都検定講習会レポート

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京都検定現地講習会 ~西本願寺の歴史と文化財~



  日時:2008年10月20日
  解説:岡村喜史先生(龍谷大学文学部 准教授)
      和田秀寿先生(本願寺史料研究所 研究員)

講義1時間、見学2時間(通常非公開文化財含む)


実は春にも同じ内容の講習会があって、申し込んだけど落選
最近は競争率が高い現地講習会
その中でも、ここ西本願寺は別格
春の講習会も、急遽午前・午後の2部制にしたけど、200人近くが参加できなかったと



西本願寺の歴史と文化財




堀川通に面した阿弥陀堂門前の法要高札(ほうようこうさつ)
な、な、な~んと!タタミ6畳分



まずは、講義のまとめから


■本願寺の歴史■       講師:岡村喜史先生

1.親鸞廟堂と本願寺の成立

 親鸞は法然から教わり、関東方面に布教していた
 60歳ころ京都に戻り、1263年没
     ↓
 大谷の地の埋葬される
     ↓
 10年後改葬。知恩院山門北側の崇泰院に移す
 お墓を訪れた信者が、ありし日のお姿を拝みたいことから
 関東の信者(門弟)により、木像が作られた

 木像は御影(ごえい)と呼ばれ、御影を安置するお堂は御影堂
     ↓
 その後、3代目の覚如が宗教的教えを整備
 寺院化を志向し、「本願寺」と称する

 寺院を目指すには、本尊が必要
 当初は「阿弥陀仏をひたすら信仰する」意味の掛け軸を安置していたが、
 後に阿弥陀如来木像が安置された

 この経緯から、本願寺のスタートは御影堂であり、御影堂の持つ意味は大きく、
 本堂より御影堂の方が大きい造りになっている(西東本願寺とも)
 また、御影堂は信者が集まる場所ともなっていて、大勢の信者を収納するための大きさが必要

 御影は「ごえい」と読み、一般的な「みえい」とは読み方の違いがある


西本願寺御影堂 西本願寺阿弥陀堂

左:御影堂(工事中)と右:阿弥陀堂=本堂 ともに重要文化財



2.本願寺の発展

 1465年、比叡山宗徒により破却
 →越前→山科→摂津大坂(石山本願寺)と移る

 本願寺が全国的な教団に発展

 加賀を実質的に領国化。権利を守るために武装(僧兵)




3.石山戦争から東西分派

 織田信長は天下統一の邪魔になることから、本能寺の大坂退出を要求
      ↓
 石山戦争(11年に及ぶ)
 本願寺・顕如、朝廷の斡旋により、信長と講和を決断

 顕如の長男・教如、講和開城を拒否。父子の意見対立

 本願寺は紀伊鷺森(さぎのもり)→和泉貝塚→大坂天満
 →1591年 京都七条堀川(現在地)へ移る


 翌年 顕如没→長男・教如が本願寺を継職

 が、顕如の妻・如春尼、顕如の遺言により「三男准如が継ぐ」と主張→豊臣秀吉に訴える

 秀吉、准如の継職を命じる

 その後、長男・教如、徳川家康より土地を与えられ、東本願寺を別立


 ※西本願寺と東本願寺が別れたのは、後継問題が原因で、
  家康が権力で本願寺を分けたという従来説は、歴史的根拠がないそうです


 幕末、西本願寺は 勤皇新政府側につくことになる

西本願寺梵鐘 本願寺の参拝会館玄関にある梵鐘

さりげなく置いてあるけど、重要文化財

この鐘は平安時代!のもので、太秦の広隆寺から買ったもの

大坂退出のときも、持ち運んだという

その後、西本願寺飛雲閣の鐘楼にあり、

新しい鐘と入れ替わりにここに置かれた



室町時代に比叡山宗徒による破却のため、大谷を退出した本願寺
その後、山科→大坂石山→紀伊鷺森→貝塚→大坂天満を経て
1591年に現在地に移り堂舎が整備された

しかし1617年、お風呂からの火事によりほとんどの建物が消失
その後再建された建物は、桃山文化の粋を極め絢爛豪華
西本願寺は、その後火事にあっていない

ちなみに…東本願寺は蛤御門の変での出火が御所から類焼
現在の建物は、明治時代の再建



では、岡村喜史先生の解説で、建物拝観へ

総御堂(阿弥陀堂) 重要文化財

 ご本尊、阿弥陀如来立像を安置する本堂。1760年の再建
 修復中の御影堂の親鸞木像も今はこちらに

西本願寺阿弥陀堂

阿弥陀堂



御影堂(ごえいどう) 重要文化財

 国指定の建造物としては、奈良東大寺の大仏殿に次ぐ大きさ
 本願寺では中心になる建物。信者収容のため、規模が大きい。1636年建立

 「ごえいどう」と読むのは、西本願寺、東本願寺、興正寺(こうしょうじ)
 興正寺は西本願寺隣接。11代顕如の次男・顕尊は興正寺に養子にでている 

西本願寺御影堂

 御影堂。平成23年まで、10年間にわたる大修復工事中



飛雲閣(ひうんかく) 国宝

 滴翠園(てきすいえん)の池に建つ楼閣
 金閣・銀閣とともに、京都の「三閣」と称される
 柱が細く、軽く飛んでいきそうなことから、「飛雲閣」と名付けられたとか
 金閣銀閣とは印象がかなり違う

 左右非対称な造りが特徴。
 これは、右側に上段があり、その上を避けて造られたため、左側に寄ったそうです

 屋根も特徴的で、1Fは唐破風、2Fは千鳥破風
 また、2Fは三十六歌仙が描かれ「歌仙の間」
 3Fは星を摘むという「摘星楼(てきせいろう)」と呼ばれる

 西は渡り廊下を渡ると、重要文化財の浴室「黄鶴台(おうかくだい)」がある 

 飛雲閣は非公開ですが、
 5/20、21の宗祖降誕会(しょうそごうたんえ:親鸞聖人の誕生お祝い法要)の日は、
 お茶席が設けられ、入ることができます

 しっとり落ち着いた、素敵な楼閣です


唐門 国宝

 現地講習会に参加するようになって、「門」大好きになった私
 この門は、かなりすごい!

 1617年の火事で、ほとんどの建物を失った西本願寺
 でも、この唐門は燃えずに残りました
 もともと堀川通正面にあったのが、今の場所に移されました
 きらびやかな顔料は、30年前の調査で復元されたそうです

 格式が高い唐破風の上に、千鳥破風が重なった屋根!
 蟇股(かえるまた)には3次元の孔雀!!


西本願寺唐門

左側に見えるのが唐破風。その上に三角形の千鳥破風
この門は四脚門。門の脚は門自体の脚は数えない

西本願寺唐門の孔雀

蟇股から飛び出しそうな孔雀


 牡丹に獅子、麒麟に虎。ほんとに豪華な門
 側面には中国の故事が4話、彫られてます
 
 門の外は「立身出世」、内は「神聖な話」。門で俗世と線引することを意味してます
 故事の内容も、門に大きな意味を持たせてるんですね

西本願寺唐門の故事

門外側左側面の故事



 細部まで見てると、いくらでも時間が経ってしまいそうで。。
 日の暮れるのも忘れる「日暮門(ひぐらしもん)」、と呼ばれているのも納得


 蟇股で門の時代を見る見方を、以前この講習会で教えてもらいましたが、
 もうひとつ、時代を見るポイント

西本願寺唐門の几帳面取り

 そうです!これです♪几帳面取り
 桃山以降江戸時代にみられます
 角に合わせて、更に2mm程掘り込まれてる

 
建物編はこれにて終了
最後に御影堂前にある、有名な銀杏の写真を

西本願寺逆さ銀杏

大火災のとき、水を吹いて御影堂や阿弥陀堂を守ったと伝えられる「水吹きの銀杏」
通常イチョウは上に伸びるが、この木は空に向けて根をはったように広がる
通称「逆さ銀杏」



西本願寺の現地講習会レポート、いよいよ書院です
書院は通常非公開、写真撮影は禁止
本願寺史料研究所研究員 和田秀寿先生の解説で書院の中へ


虎の間 重要文化財

玄関を入ると、黒っぽい板に囲まれた部屋

この黒っぽい壁板、実は虎と竹が描かれている
横から見ると、かすかにわかる虎の姿

1630年にできたとされるここの絵は、戦後すぐ文化庁による剥落防止剤(PVA)が塗布された
そのPVAが化学変化により、真っ黒になったそうです
実は全国にそういう例は多くあるとか…

ここの虎の絵は、2011年には収蔵庫に収蔵され、新しい虎の絵が展示されるそうです
それまでに機会を見つけて、ご覧になることをお勧めします!

尚、現在の絵は、最初に描かれた絵に、150年後に加筆されたとこがわかっているとか

玄関に虎は、権威の象徴だそうです


対面所(鴻の間) 国宝

下段、上段、上々段からなる大広間。下段は162畳あり、400人入るとされる
欄間のコウノトリの透かし彫刻から、「鴻の間」と呼ばれる

帳台構(ちょうだいかまえ)、床(とこ)、御成口(おなりぐち)、違い棚、付書院(つけしょいん)
書院造5点セットが揃い、帳台構~違い棚が一直線に並ぶ本願寺独特の様式

上段の天井は格式高い、折上格天井(おりあげごうてんじょう)→二条城でも見られますね

上々段は1634年、徳川家光上洛の際、新設された(但し、実際には来られなかった)

この対面所、すごく広いですが、更に広く見える工夫がされてます
それは、柱の間隔。手前は2間。上段に近づく最後の柱の間隔だけ、1.5間。
この工夫により、奥行きが広~く感じられます

ここに描かれてる障壁画のほとんどは渡辺了慶らにより描かれている
渡辺了慶は狩野光信の弟子


 ここで、狩野派の手本「累世用画法」について
 狩野派の描く絵は、一定の決まりによって描かれる

 まず、入口には「走獣」→下段には「花鳥」→上段には「人物」
 更に高貴な人の居所には、「山水画」

 確かに!どの間もそうなってる
 何気なく見てた障壁画も、これを覚えておくと、きちんと解釈ができます


南能舞台(重文)と北能舞台(国宝)

重要文化財の能舞台は、春日大社、厳島神社とここ西本願寺南能舞台
国宝の能舞台はここの北能舞台のみ

北能舞台:現存最古の能舞台(1581年)
     木が床だと思ってたら、その下には、漆塗りの床があるそうです
     床下には甕があり、音響効果◎
     また、舞台周りの石は、全て同じ向きに敷き詰められ、これも音響効果のため
     徳川家康から下賜されたものとの言伝えがある(駿府城より)

ここで、能舞台の時代の見方

 舞台への橋掛かり(廊下)の欄干が、湾曲してる方が古く、直線が新しい
 橋掛かりと舞台がつながる角の角度が90度に近い方が新しく、鈍角の方が古い

西本願寺書院には二つの能舞台があるので、見比べるとよくわかりました♪


書院、その他の見所

・雁の間(国宝)から欄間越しに隣の 菊の間(国宝)を見ると、
 菊の間の障壁画に描かれた月をバックに、雁の間の欄間の雁が飛んでるように見える
 計算された演出に、思わず感嘆の声

・虎渓の庭に沿った「東狭屋の間」。ここの天井にはたくさんの書物の絵がかかれている
 その中央に、一匹のネコ。ネズミの見張りをしている「八方にらみのネコ」
 ここに描かれている書物は、全て実在するものだそうです

・1871年の京都博覧会の出品目録にあった「金泥雲龍図」の存在が長らく不明であったが、
 南能舞台前の対面所の杉戸に書かれているのがわかった
 この杉戸、虎の間の壁板同様、真っ黒になっている
 でも、真横から見ると、なんとなく龍の顔が浮かんでくる
 研究されてる先生も、びっくりの発見だったそうです


国宝、重文満載の西本願寺書院
通常非公開ですが、毎年5月20、21日は祝賀能が行われ、飛雲閣同様公開されます