京都検定講習会レポート

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熊野若王子神社(くまのにゃくおうじ じんじゃ) ~岡崎・南禅寺・蹴上エリア


・祭神:国常立命(くにとこたちのみこと)、伊佐那岐神(いざなぎのみこと)、
     伊佐那美神(いざなみのみこと)、 天照大神(あまてらすおおみかみ)


京都市左京区若王子町2
TEL 075-771-7420


<<memo>>
・社名は天照大神の別称によるもの。単に若王子神社とも呼ぶ
・歴代の足利将軍に篤く信仰されたが、応仁の乱で焼亡。豊臣秀吉によって再建された。
・熊野神社、新熊野神社とともに京都三熊野神社の一つ。




>> 新島襄・八重の墓、山本覚馬の墓
>> 新島襄・八重と熊野若王子
>> 参拝の記録(2013年1月)

2013年1月参拝

大河ドラマ放送で人出が多くなる前に、新島襄と八重のお墓へ
新島襄と八重が眠る同志社共同墓地へは熊野若王子神社を通って行くことになります
(もともとは社領地)

お墓についてはこちら





哲学の道の終点、若王子橋のすぐ近くにありました
散策する人々で賑わう哲学の道も、こちらに折れてくる人はほとんどいなくて
境内は静か

写真右手が本殿、左手が恵比寿殿
恵比寿殿の中には室町時代作と言われる大きな恵比寿像があります




本殿前にはこのようにありました
社名が天照大神の別称によることも書かれてます




画像が小さいですが、絵馬です
八咫烏(やたがらす)が梛(なぎ)の葉をくわえてます

八咫烏は熊野社神のお使い

境内には樹齢400余年、京都府で最も古いと言われる梛の樹があります
すべての苦難をなぎ倒すお守り、「梛守」があります

◆新島襄・八重と熊野若王子

熊野若王子神社で『新島襄・八重(八重子)と熊野若王子神社とのご縁』という紙をいただいた
とても興味深い内容でしたので、調べたこととあわせて書いておきたいと思います。


山本八重の兄、山本覚馬は京都府顧問の職にあり、
当時若王子神社の26代宮司だった伊藤快彦(いとう やすひこ)と接点があったそうです。

新島襄が学校創立に伴いアメリカから招いた宣教師が亡くなったとき、
埋葬する所がなく困っている。という話を伊藤宮司は山本覚馬から聞きます。
当時のキリスト教に対する偏見が理由です。

そこで「(当時社領地の)山の頂上だが葬れるのでは」と伊藤宮司が申し出た、とあります。
それが「同志社共同墓地」
新島襄と八重のお墓参りをしたときに目にした、たくさんの十字架の墓石。

そして、47歳の若さで新島襄が他界したとき、父親の眠る南禅寺に葬られるはずが、
まだ残るキリスト教への偏見のため叶わず、同墓地へ埋葬されたそうです。
山頂にある新島襄のお墓には、「葬儀の後、学生に担がれてここに埋葬された」
とありました。そういういきさつがあったんですね。

画家でもあった伊藤宮司は、当時上京しており、、新島襄の訃報と若王子山に葬られた因縁を想い、
新島襄の肖像画を描いたそうです。

その後帰省し、肖像画は同志社の生徒であった小崎継憲の勧めで同志社に寄贈したそうです。
その肖像画は現在、同志社の礼拝堂に掲げられています。


若王子神社でいただいた紙には、山本覚馬が同じ墓地に眠る理由については書かれてなかったけど、
こういった縁があったからなのでしょうか


>> 画家・伊藤快彦と星野画廊
>> 新島襄・八重の墓、山本覚馬の墓