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>> 新島襄・八重と熊野若王子 >> 参拝の記録(2013年1月)
熊野若王子神社で『新島襄・八重(八重子)と熊野若王子神社とのご縁』という紙をいただいた とても興味深い内容でしたので、調べたこととあわせて書いておきたいと思います。 山本八重の兄、山本覚馬は京都府顧問の職にあり、 当時若王子神社の26代宮司だった伊藤快彦(いとう やすひこ)と接点があったそうです。 新島襄が学校創立に伴いアメリカから招いた宣教師が亡くなったとき、 埋葬する所がなく困っている。という話を伊藤宮司は山本覚馬から聞きます。 当時のキリスト教に対する偏見が理由です。 そこで「(当時社領地の)山の頂上だが葬れるのでは」と伊藤宮司が申し出た、とあります。 それが「同志社共同墓地」 新島襄と八重のお墓参りをしたときに目にした、たくさんの十字架の墓石。 そして、47歳の若さで新島襄が他界したとき、父親の眠る南禅寺に葬られるはずが、 まだ残るキリスト教への偏見のため叶わず、同墓地へ埋葬されたそうです。 山頂にある新島襄のお墓には、「葬儀の後、学生に担がれてここに埋葬された」 とありました。そういういきさつがあったんですね。 画家でもあった伊藤宮司は、当時上京しており、、新島襄の訃報と若王子山に葬られた因縁を想い、 新島襄の肖像画を描いたそうです。 その後帰省し、肖像画は同志社の生徒であった小崎継憲の勧めで同志社に寄贈したそうです。 その肖像画は現在、同志社の礼拝堂に掲げられています。 若王子神社でいただいた紙には、山本覚馬が同じ墓地に眠る理由については書かれてなかったけど、 こういった縁があったからなのでしょうか >> 画家・伊藤快彦と星野画廊 >> 新島襄・八重の墓、山本覚馬の墓 |
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